臺灣文學虛擬博物館

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百年の旅びと──佐藤春夫1920台湾旅行文学展

旅の原点:青年作家佐藤春夫・28歳


 


伝統とモダン

1920年、日本帝国はすでに、明治の文明開化の時代から、大正のモダン文化を享楽する時代へと移行していました。

佐藤春夫(1892-1964)は、戦前戦後をまたいで活躍した詩人・小説家・文芸評論家です。出身地は、熊野の嶮しい山を背に、広い太平洋に面した現在の和歌山県新宮市です。新宮には、秦始皇帝の使者として、海上に蓬莱山(仙人の島)を探しに来た徐福の上陸地だったという伝説があります。戦前は台湾との間に、木材取引で密接な往来がありました。新宮人は権力に屈せず、自主独立の気風を持っていました。佐藤春夫の家は代々漢方医で、父は西洋医に転じたため、漢学と洋学の教養があり、その衝突と融合は、変化に富んだ春夫の生活様式と作風に体現されたのです。

 

熊野川から見た新宮 1910年頃。新宮は熊野川の水運を利用した材木の取引で繁栄した。河原に筏師が利用する小屋が林立している。

 

佐藤春夫成育の家戦後。父が営んだ熊野病院(1894開院)は戦後増築され、近畿大学分校になった。入口の坂は佐藤が自転車を乗り回した所。左手の洋館は初恋の舞台。(佐藤春夫記念館提供)

 

初恋の人・大前俊子(1891-1922),1905年1月。13歳熊野病院入院中の兄の看病に来ていた。佐藤は彼女に宛てた短歌を数多く残している。佐藤の友人に嫁いだが、軍人の夫に先立たれ、自身も早世した。(佐藤春夫記念館提供)

 

新宮中学5年当時,1909年。鬼ヶ城遠足の際、撮影。最上段が佐藤春夫。下段右4人目(挙手)が東熈市。佐藤は文学書に親しみ、学校教育を批判して停学になるなど反逆児だった。(東哲一郎提供)

慶應義塾在学時代,1911年。2月父の友人・大石誠之助が「大逆事件」で処刑され、衝撃を受けた翌月。永井荷風(1列右5)、佐藤春夫(3列右4)。佐藤の左隣は終生の親友・堀口大學。(佐藤春夫記念館提供)

 

「自画像(眼鏡のない)」佐藤春夫,1915年(油彩 カンバス)。第二回二科美術展覧会入選作。多才で知られた佐藤は、この時期、画家を志した。『殉情詩集』(1921.7、新潮社)の扉絵に使用。(ルヴァン美術館蔵)

 

「自画像」佐藤春夫,1942年(油彩 カンバス)。佐藤は自分の画風を後期印象派の影響によるものと述べている。(佐藤春夫記念館蔵)

 

佐藤春夫記念館 (旧佐藤春夫邸)。東京小石川に新築し、1927年3月入居。大石七分設計。八角形の塔を持つ奇抜なデザイン。新宮に移築し、1989年11月、佐藤春夫記念館として公開。

 

対聯「簾外有天來雨露/堦前餘地種芝蘭」。小石川の自邸応接間に掲げられていた対聯。面倒見のよい佐藤のもとには数多くの芸術青年が集い、後年「門弟三千人」と称された。(佐藤春夫記念館蔵)

 

扁額「悠然見山」。中村不折書。陶淵明「帰去来辞」より。応接間に掲げられていた。(佐藤春夫記念館寄託)

 

鼻眼鏡。1911年4月9日、19歳の誕生日に第1号を買って以来、鼻眼鏡は佐藤春夫のトレードマークになった。(佐藤春夫記念館蔵)

 

懐中時計。万年筆・時計・ライターなど、佐藤は小物を愛した。懐中時計は鼻眼鏡とともに、佐藤のハイカラ(西洋)趣味を象徴している。(佐藤春夫記念館蔵)

 

万年筆。最初は太字の付けペンを愛用したが、1923年頃から万年筆を使い始め、晩年にかけて細字になった。(佐藤春夫記念館蔵)

 

木印「三人跨日二人戴之」 1926年。側款「丙寅三月正平/作於更生居」。印文は「春夫」の名を分解した父・豊太郎の考案。(実践女子大学寄託)

 

木印「詩多成枕上」 制作年不明。佐藤は狭い場所での執筆を好み、布団に腹這いになって書くことも多かった。(実践女子大学寄託)

 

石印「任人笑風雲氣少兒女情多」 傅抱石 1935年。側款「春夫先生撰句/抱石刻」。鍾嶸(梁)『詩品』による。『一吟双涙抄』(1935.6、野田書房)出版時に制作依頼。(実践女子大学寄託)


 

 

苦境と活路

佐藤春夫は幼くして創作に志を持ち、エリート校の一高合格を期待する父親にそむいて慶應義塾に進学し、憧れの永井荷風に教えを受けます。しかし、正規の教育からすぐに離脱した春夫は独学を開始。谷崎潤一郎と出会って彼の添削と推薦を受け、1918年以降、「李太白」「田園の憂鬱」などを次々と発表して、浪漫派の旗手と目されました。

「李太白」は唐代詩人の李白を主人公とするファンタジーです。「田園の憂鬱」は東京郊外における最初の新婚生活の悩みを描きました。春夫文学を貫く歴史ロマンと芸術憧憬の主題がそこに現れています。デビューから2年と経たぬ頃、春夫は二度目の妻と弟のあやまちに気がつきます。一方、谷崎が義理の妹と密通していたことも知り、身内に裏切られた谷崎夫人の千代に同情しながら、その感情を言い出せないことに苦しみました。兄弟と伴侶にまつわる悩みから春夫はスランプに陥り、1920年春に新宮に帰郷、静養します。このとき、苦境に一つの活路を開くことになったのが、台湾の旅です。

台湾関連作や『殉情詩集』(1921)「秋刀魚の歌」(同)などの代表作を次々と書いた春夫の文壇的名声は日ましに高まり、後年、芥川賞の選考委員も務めました。太宰治が芥川賞に執念を燃やし、さかんに手紙を書いて春夫の庇護を得ようとしたことも、日本文壇史上ではよく知られています。

 

「薔薇」 佐藤春夫 制作年不明(ペン 紙)。佐藤は「花痴」を自任し、生涯好んで花を描いた。特に薔薇は、佐藤文学では高貴な芸術を象徴する。(佐藤春夫記念館蔵)

 

『病める薔薇』 佐藤春夫 1918年11月 天佑社。佐藤春夫の第一著作集。9編収録。谷崎潤一郎序。「病める薔薇」は「田園の憂鬱」未定稿のタイトル。(河野龍也蔵

 

『田園の憂鬱』 佐藤春夫 1919年6月 新潮社。1916年、神奈川県の郊外に女優・遠藤幸子と「隠棲」した経験をモデルとする佐藤のデビュー作。(河野龍也蔵

 

『都会の憂鬱』 佐藤春夫 1923年1月 新潮社。「田園の憂鬱」の続編。田園から東京に戻り、妻の舞台収入で暮らす先の見えない芸術修行を描く。(河野龍也蔵

 

原稿の落書き 佐藤春夫 1921年頃 新資料。佐藤は原稿が進まないと余白に設計図を書く癖があった。その執筆風景は「田園の憂鬱」にも見える。(実践女子大学寄託)

 

少女時代の小林千代(1896-1982)。群馬前橋生まれ。1915年、谷崎潤一郎と結婚するが疎んじられ、佐藤の台湾旅行後に再婚計画が進むが破談になる。その際、千代が佐藤に贈った写真。(竹田長男提供)

 

佐藤春夫宛谷崎潤一郎書簡 1921年6月6日 初公開。台湾から帰った佐藤は小田原の谷崎宅に寄寓。千代を佐藤に譲ると約束した谷崎が翻意したため激しい応酬となり、1921年絶交に至った。いわゆる「小田原事件」の最重要書簡の一つ。(実践女子大学蔵)

 

谷崎潤一郎・千代・佐藤春夫挨拶状 1930年8月。「小田原事件」の10年後、谷崎千代と佐藤春夫の結婚が実現した。離婚と結婚を同時に報告する異例の挨拶状が、世間を驚かせた。(河野龍也蔵

 

佐藤春夫と谷崎潤一郎 1930年8月7日。佐藤の再婚に関して、谷崎が佐藤の実家に挨拶に来た際、勝浦赤島温泉に滞在して撮影した写真。(佐藤春夫記念館提供)

 

佐藤春夫の新家庭 1932年。右から佐藤春夫、方哉(佐藤と千代の子)、千代、鮎子(谷崎の娘)。小石川の自宅にて撮影。(佐藤春夫記念館提供)

 

『盲目物語』献呈本 谷崎潤一郎 1932年2月 中央公論社。谷崎は婦人記者・古川丁未子と再婚。佐藤夫妻と交流を続け著書も贈った。しかしこの本の題字は、谷崎が新たに愛を傾けた人妻・根津松子の筆跡である。(佐藤春夫記念館藏)

 

太宰治 (1909-1948)。1936年7月27日付の佐藤宛書簡に同封された太宰の写真。徴兵検査で断髪を拒否した直後。「不惜花顔、当惜蓬髪」(顔は老けてもいい。髪の毛が惜しい)、「私ノ家デハ、男、三十歳ニナルト、ミンナ禿ゲマス」とおどけて見せる。(実践女子大学寄託)

 

佐藤春夫宛太宰治書簡 1936年2月5日。太宰治も佐藤を慕う「門弟」の一人だった。芥川賞に執念を抱いた太宰は、選考委員の佐藤に懇願するが、健康状態を心配した佐藤に入院させられた。実践女子大学寄託)

 

『晩年』 献呈本 太宰治 1936年6月 砂子屋書房。1936年6月22日、太宰は第一創作集を携えて佐藤邸を訪れた。7月11日に上野で出版記念会が開かれ、佐藤が挨拶を述べた。(佐藤春夫記念館蔵)

 

スケッチブック(木炭鉛筆附属) 佐藤春夫使用 1945年頃。1945年夏以降、疎開先の佐久(長野県)で使用。終戦を告げる天皇の玉音放送を聞いた衝撃を詠った短歌のメモを含む。(実践女子大学寄託)

 

『殉情詩集』  佐藤春夫 1921年7月 新潮社。佐藤自装の第一詩集。谷崎千代への慕情を詠い、抒情的な大正の時代に大流行した。ネクタイの柄を使った装丁も、瀟洒で人気を集めた。(河野龍也蔵

 

『我が一九二二年』 佐藤春夫 1923年2月 新潮社。岸田劉生装。「小田原事件」後の孤独を詠い、佐藤の抒情詩では最も名高い「秋刀魚の歌」を収録。(河野龍也蔵

 

『玉簪花』 佐藤春夫 1923年8月 新潮社。『聊斎志異』『今古奇観』の名作を紹介。「漢文訓読」の伝統がある日本で、佐藤が行った中国古典の現代語訳は斬新な試みだった。(河野龍也蔵

 

『車塵集』佐藤春夫 1929年9月 武蔵野書院。小穴隆一装。中国古典の閨秀詩を芸術性の高い日本語詩に訳し、「漢詩」のイメージを刷新した。(河野龍也蔵

 

『魔女』 佐藤春夫著 川上澄生画 1931年10月 以士帖印社。秋朱之介装。古語を駆使する典雅な詩風の佐藤が、親友・堀口大学に倣い、無韻律の破格な現代詩に挑戦した。(河野龍也蔵

 

『FOU』 佐藤春夫著 谷中安規画 1936年4月 版画荘。鬼才・谷中安規の版画を多数挿入した限定本。美麗な装丁の多い佐藤の本の中でも最高傑作と言える。(実践女子大学蔵)

 

『維納の殺人容疑者』 佐藤春夫 1933年9月 小山書店。題材は弟・秋雄が提供。佐藤は「指紋」(『中央公論』増刊1918.7)以来、探偵小説でも活躍した。(河野龍也蔵

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