臺灣文學虛擬博物館

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百年の旅びと──佐藤春夫1920台湾旅行文学展

旅の情感:「蕃社」・廃港・傷心の人

 

 

純真と恐怖

「日月潭に遊ぶの記」(1921)「旅びと」(1924)は、佐藤春夫が台湾の名勝地・日月潭を訪ねた際の紀行文です。二八水(現二水)から水社に向う途中は大官の視察旅行のような陶酔を味わいました。「生蕃」(文明化されない原住民)がじかに見られると思いきや、原住民が見物客のために踊ったり、同行者が原住民の女性にいたずらするのを見たりして、旅行にこれほど支障がないのも、皆「蕃地」が「王土」になったためだと悟ります。

「霧社」(1925)は春夫が埔里からサラマオ事件の動乱に揺れる霧社に入り、さらに能高山まで登山する旅程を描いています。この四五日のうちに、春夫は子供・青年・少女・婦人など立場の異なる原住民と間近に接します。洗脳式の教育や交易のごまかし、強制労働や内台結婚の残酷さを春夫は目撃しました。作品終盤、色仕掛けの罠にはめられたと思い込んだ春夫は、慌てて原住民の小屋から逃げ出し、月の綺麗な丘で息を切らしながら振り返ると、いつの間にか謎のような原住民少女がついて来たことに気づきます。言葉に幼さを残し、瞳を深い色に輝かせた少女が、それとは全く矛盾した行動を取ったことが、春夫を恐怖に陥れたのでした。このように抑えきれない「恐怖」の描写を、自嘲や植民統治の批判に使う手法は、春夫の台湾作品に一貫した特色であり、日本の「外地」文学に特異な位置を占めるものです。

 

「蝗の大旅行」 佐藤春夫 『童話』 1921年9月。嘉義から日月潭に向かう途中、汽車に乗り込んで来た蝗の話。(河野龍也蔵

 

「蝗の大旅行」佐藤春夫 1921年 新資料。「私の父」と題する反故の裏に書かれた初期構想。原稿の一人称「私」は、完成形では「僕」に改められた。(実践女子大学寄託

 

『蝗の大旅行』 佐藤春夫 1926年9月 改造社。冨澤有為男装。(河野龍也蔵

 

『蝗の大旅行』 佐藤春夫 1950年1月 芝書店。「蝗の大旅行」は佐藤の童話作品を代表するものとして、戦後の童話集の表題にもなり、愛され続けた。(河野龍也蔵

 

「日月潭に遊ぶの記  佐藤春夫 『改造』夏期臨時号 1921年7月。総合雑誌『改造』の「新しい避暑地」特集に寄稿された紹介文。山地開発の歴史と旅先の安全性を説く。(河野龍也蔵

 

松山敏(悦三)宛佐藤春夫書簡 1921年11月22日。編集者に「日月潭に遊ぶ記」を『芸術家の喜び』(1922.3、金星堂)に収録するよう指示している。(森奈良好寄贈)

 

二水における増澤深治(1878-1942)と台湾電力関係者 1924年10月22日。左1人目は「旅びと」に登場する「運送屋さん」増澤深治。二水の邸宅に植物を集め、萬樹園と名付けて、日月潭電力工事の視察に来る高官に休憩所を提供した。中央着席者は伊澤多喜男総督。右背後は台湾電力社長・高木友枝。(伊東和恵提供)

 

涵碧楼。1916年4月、南投庁が建設。1919年、台湾電力によるダム工事が始まると、工事関係者でにぎわった。佐藤は1920年9月19日、ここに泊まった。「旅びと」の舞台。

 

水社杵歌。石印集落のサオ族。涵碧楼の宿泊客を歌と舞踊でもてなし、名物になった。佐藤はその文明化を「旅びと」で憂慮。

 

『たびびと』 佐藤春夫 1924年10月 新潮社。佐藤春夫装。日月潭の宿で働く薄幸の女を憐れみ、伝統文化を失いつつある原住民への懸念も見える。(河野龍也蔵)

 

「霧社」 佐藤春夫 『改造』1925年3月。武器と貨幣の力で原住民を抑え込む統治の実態を描く。1930年の霧社事件を予見したとも言える内容。(河野龍也蔵)

 

霧社少女 1920年前後。「霧社」には日本の支配に翻弄される原住民女性の苦難も描かれている。写真の少女たちが演奏しているのは竹と鉄片で作られた楽器「口琴」。

 

 

詩人と大統領

「もしこの島に文人墨客といふやうな者でもゐるならば訪うて見たい」というのは、山地見学を除いて、佐藤春夫が旅行に望んだ二つ目の目的でした。「殖民地の旅」(1932)には、書画の名作や閑居の愉楽、書物の優雅な装幀など文人趣味に魅了される春夫の姿が描かれています。総督府が手配した現地ガイドのA君(許媽葵)の案内で、鹿港の洪棄生など文人訪問を試み、最後に「本島の第一人者で、もし仮りに台湾共和国といふやうなものでも成立すると空想してみて、その時の大統領はと言へば正しく彼」とされた阿罩霧(現霧峰)の林献堂と対談しました。洪棄生の面会謝絶に遭い、林献堂に同化政策の可否を問われるなど、山地や厦門とは全く異なる文化体験を通じて、日本の植民地化が台湾にもたらした傷に向き合ったことは、春夫の旅行のもう一つの重要な側面です。

 

「殖民地の旅」メモ 佐藤春夫 1932年頃 新資料。「殖民地の旅」(『改造』1932.9-10)で、佐藤は日本の統治に対する漢民族社会の厳しい目を描いた。(実践女子大学寄託)

 

『寄鶴齋詩矕』 洪棄生 1917年 南投活版社。鹿港で出会った洪炎秋(案内人許媽葵の学友)の父が著名な漢詩人の洪棄生だと聞き佐藤は面会を希望したが、日本統治を嫌う棄生に断られる。佐藤は許媽葵から渡された私家版詩集の内容に惹かれ、長年書斎に愛蔵した。(国立台湾文学館蔵)

 

「殖民地の旅」人物1 許媽葵(文葵)(1900-1968) 『台中中学校第一回卒業紀念帖』(1919.3)。鹿港出身。1919年台中中学校を卒業後、台中庁(のち台中州)書記・通訳。権力を恐れぬ反骨精神に富んでいた。(河原功提供)

 

「殖民地の旅」人物2,洪棄生(1866-1928)。鹿港出身。1889年秀才。1895年、唐景崧の抗日活動に参加。繻と改名、字を棄生とする。面会はできなかったが、台湾の気骨のある文人として佐藤に強い印象を残した。(国立台湾文学館提供)

 

 

「殖民地の旅」人物3 洪炎秋 (1899-1980)。鹿港出身。北平師範大学などで教鞭を執り、戦後台湾大学中文系教授に就任、『国語日報』を創刊。新世代の知識人として、父棄生と好対照をなす親子だった。(国立台湾文学館提供)

 

「殖民地の旅」人物4 鄭貽林(1859-1927) 『人文薈萃』(1921.7、遠藤写真館)。原籍は福建泉州。1879年鹿港に移住。1897年、洪棄生らと詩社を結成。隸書に長じ、同じ鹿港の鄭鴻猷と並び称された。

 

  

「殖民地の旅」人物5 林献堂(1881-1956) 『人文薈萃』(1921.7、遠藤写真館)。阿罩霧(現台中市霧峰区)出身。1921年「台湾議会設置請願書」を帝国議会に提出。同年、台湾文化協会を結成後、1927年、蔣渭水、蔡培火らと台湾民衆党を結成。1949年、療養のため日本に移住した。

 

「わが支那遊記」(『生活文化』1943.7)完成稿 佐藤春夫 新資料。台湾旅行を回想し、鹿港・旗後(高雄旗津)や山間部では大陸より古い中国文化が体験できたと語る。(実践女子大学寄託)

 

著作集原案1 佐藤春夫 1921年 新資料。この資料から、佐藤が当初、台湾旅行と福建旅行の成果を1冊にまとめようと企てていたことが分かる。(実践女子大学寄託)

 

著作集原案2 佐藤春夫 1921年 新資料。実際には、福建旅行のみで『南方紀行』が編まれ、台湾作品集『霧社』は旅行の16年後に刊行された。(実践女子大学寄託)

 

 

佐藤豊太郎(父)宛佐藤春夫書簡 1921年10月27日。『南方紀行』出版の経緯が分かる。「支那更紗もあの模様をつづめたら本の表紙になりさう」「紀行文は支那の分だけ二百枚ほど、本屋が急ぐから纏めることにします」と見える。(森奈良好蔵)

 

『霧社』特製版 佐藤春夫 1936年7月 昭森社。梅原龍三郎裝。佐藤が昭森社の森谷均に贈った豪華限定本。直筆署名入りで、シリアルナンバーは第1号。(河野龍也蔵)

 

『霧社』再版 佐藤春夫 1943年11月 昭森社。戦時中の規制に配慮し、日本統治に対する台湾住民の反感を描いた「殖民地の旅」が削除されている。(河野龍也蔵)

 

再版「霧社」はしがき 佐藤春夫 1943年10月 新資料。ジャワ島の従軍視察直前に書かれた。「多分、空の上から久しぶりの台湾を見るであらう」とある。(実践女子大学寄託)

 

 

廃港と霊魂

小説「女誡扇綺譚」(1926)は、多くの作品を残した佐藤春夫本人が最も愛した作品の一つです。探偵小説の形式を使い、日本人の「私」と台湾人の「世外民」が台南の廃墟に踏み込んで、「なぜもつと早くいらつしやらない?」という不思議な声を聴き、その謎が明らかにされる過程を描いています。「世外民」は豪商沈家の霊魂の声だと信じていますが、「私」は恋人を待つ生きた女だと言って譲りません。最後に思わぬどんでん返しがあり、「私」は謎解きに失敗するだけでなく、哀れな少女の秘密の恋を、悲劇の結末へと追い込む事態を招き、自責に駆られた末に台湾を去ります。

「女誡扇綺譚」は、荒れ果てた豪邸の扉の中に無限の倦怠と哀感を包んだ古都台南と、かつての繁栄を土砂に埋もれさせた安平の内海とを描き出しています。その中に事件の真相と歴史の真意を追う人物を配し、耽美の抒情と理性の叙事とが見事に融合した傑作へと織り上げられました。当時の台湾で、それは叙事の手本とされただけでなく、今日にいたるまで台湾文学研究の焦点として生き続けています。

 

参考文献メモ 新資料。「国姓爺阿蘭陀合戦」(『文芸春秋』1934.7)のメモか。台湾の歴史に対する佐藤の関心は長く続いた。(実践女子大学寄託)

 

「新訳女誡扇綺譚」 水谷清 1931年(油彩 カンバス)。佐藤ファンの水谷が安平を訪ねて描き、佐藤家の応接間に飾られた。旧英国領事館と台湾少女の構図。(佐藤春夫記念館蔵)

 

「女誡扇綺譚」 佐藤春夫 『女性』1925年5月。ミステリアスな幻想美と、植民地の矛盾を突く社会性を両立させた、佐藤の台湾関連作の最高傑作。​​​​​​​(河野龍也蔵)

 

『女誡扇綺譚』 再版 佐藤春夫 1948年11月 文体社。作品に登場する「台湾府古図」(清朝康煕年間の台湾図の略図)が表紙のデザインに使われている。​​​​​​​(河野龍也蔵)

 

赤嵌城から望む安平。「女誡扇綺譚」の冒頭は、赤嵌城(ゼーランジア城)跡からさびれた安平港を見下ろす場面。オランダ人・鄭成功・清帝国・劉永福(台湾民主国)・日本と、権力の興亡を見守ってきた台湾第一の港だが、木造ジャンク船時代の終焉とともに没落が始まった。​​​​​​​

 

二万分之一地形図「台南」 陸地測量部・臨時測図部 1895年。日本軍占領直後の実測図。入り江は養魚池や塩田になり、台南・安平間にはのちに台車(トロッコ)のレールも敷かれた(現安平路)。「台南から四十分ほどの間を、土か石かになったつもりでトロッコで運ばれなければならない。」​​​​​​​(国立国会図書館蔵)

 

五条港の拡大図。安平から台南に向かう運河は、市内の手前で5本に分岐していたため、「五条港」と呼ばれた。作品は、その中の「禿頭港」(仏頭港)の語釈から始まる。​​​​​​​(国立国会図書館蔵)

 

仏頭港(旧名禿頭港) 1910年頃。作中の廃屋は「禿頭港」の奥にあったという。1910年代まで、端午節の龍舟競漕は禿頭港(仏頭港・写真左方向)で行われた。次第に土砂に埋まり、使われなくなった。現在の景福祠前の路地が港の跡である。​​​​​​​

 

大西門上より安平を望む 1895年10月25日。日本軍台南占領直後の大西門外。中央右寄りの竿は水仙宮。遠景左方が安平。安平・台南は、1860年の天津条約発効で外国商館が続々進出したが、日本の領土化後に撤退が相次ぎ、豪華な廃墟が残された。​​​​​​​(国立国会図書館蔵)

 

 

歴史と伝奇

「女誡扇綺譚」中、開拓者から海上貿易商に転じた沈家の逸話は、台湾移民史の縮図として、霧峰林家を含む台湾の名家の歴史を脚色して作り上げたものです。荒れ果てた沈家の豪邸は、台南新港墘の「廠仔」(現民族路三段)や、仏頭港(禿頭港)の沈家(現海安路附近)、それに霧峰宮保第(林家)を総合して膨らませたイメージでしょう。「私」と「世外民」が廃屋探検の後で酒を汲み交わす「酔仙閣」(現宮後街)は、経営者の子孫が同じ店名を復活させ、別の場所で洋菓子店を営んでいます。

 

口角に泡を飛ばして歴史を語る「世外民」は、「殖民地之旅」の総督府事務雇のA君と同じく、主人公の日本人「私」を台湾のディープな世界に導く翻訳者、そして案内人の役を演じています。A君は実在の人物で、鹿港に生まれ、台中中学(現台中一中)を卒業した許媽葵です。「世外民」はこの許媽葵と、旧城(現左営)の名家から出た陳聰楷の二人をモデルにした架空の人物です。 ​​​​​​​

 

西門外作品舞台図。台南市内の廃屋のモデルは、陳家満の造船所「廠仔」と、北勢街(現神農街)の沈徳墨の邸宅が候補に挙がる。後者は、開港後に活躍した貿易商で、作品の設定よりも新しい。邸宅は現在の海安路開通時に破壊された。​​​​​​​(河野龍也提供)

 

廠仔遺構(現錦興農具廠) 2012年。現在の民族路三段176巷にある「廠仔」の一部。オランダ統治時代に伝来したY形とS形の耐震金具「壁鎖」を軒下に使い、建築史的にも極めて貴重な現存例である。​​​​​​​(河野龍也撮影)

 

廠仔二層楼(2013年撤去) 2012年。最近まで「壁鎖」を使った2階建の遺構も残っていた。1939~40年、台南第二高等女学校教諭の新垣宏一は「廠仔」を廃屋のモデルとした。​​​​​​​(河野龍也撮影)

 

廠仔内代天府 2017年。「廠仔」を経営した陳家の守護神が今なお祀られている。「神通広済」の扁額は、1868年に奉納したもの。​​​​​​​(河野龍也撮影)

 

酔仙閣(租借拡張部分) 2012年。廃屋の声の正体をめぐって「私」と世外民が議論を交わす料理店「酔仙閣」は、2016年の調査の結果、現在の宮後街に建物の一部現存が判明した。​​​​​​​(河野龍也撮影)

 

酔仙閣芸妲。酔仙閣は台湾南部の著名料理店で、多くの芸妲(芸者)を抱えていた。漢詩人の風雅の拠点でもあった。​​​​​​​(呉坤霖提供)

 

商工地図。西門円環の近くに料理店の醉仙閣と西薈芳が並ぶ。酔仙閣は酔仙楼支店として1913年外宮後街(現宮後街)に開業。​​​​​​​(劉克全蔵)

 

宮後街復元図 1920年頃。地籍図と商工録から復元。水神を祀る「水仙宮」一帯は、「大西門外」と称されたかつての港町文化の中心地。高級料理店の醉仙閣・西薈芳や海産・雑貨店に港の栄華が偲ばれる。歯科材料店があり、東熈市も附近を熟知していたはずである。​​​​​​​(河野龍也提供)

 

陳聰楷(左)(1892-?) 1910年代。陳聰楷は旧城(左営)出身の実業家。東熈市の出資者で佐藤と親しくなり、台南や鳳山を案内した。佐藤は「華奢な美男子」と呼んでいる(「鷹爪花」)。(陳錦清提供)​​​​​​​

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